多神教と一神教の違いについて

 神々は、地理的な制約を受けるもので、いわば地域密着型である。アマテラスをギリシャに持ち込んでも齟齬が生じるし、アテナをエジプトに持ち込んでも同様である。そうした、齟齬を解消するために近場の人々が交流し、地域の枠組みを超えるときには、神々が融合されていく。

 唯一神は、持ち運びやすいものである。多少の認識の違いは生じるが、どこに持って行ってもおおむね共有しやすいし、相容れないのは多神教が強く根付いている土地のみである。

 これらは「食べ物」という概念で考えるとわかりやすい。個々、個別の食べ物を上げると、それは知らないとか、ここでは育てられないとか、そういった不適合を起こしやすいが、「食べ物」という包括的な概念であれば、認識の違いや地域特性の不適合が生じたとしても、各々が「食べ物」と認識しているものを、それに当てはめれば理解し、適応できるため、共有しやすいものである。

 神それ自体は意味のない物であり、役に立たない物である。これに意味を持たせるには、神々の場合には先祖や万物への尊敬や、物語がそれであり、先祖や万物を神々に仕立て語り継いだり、物語を作ることによって規範を提示する役割がある。唯一神の場合には教義がそれであり、この教義の権威付けに唯一神が使用される。また、唯一の存在に権威を持たせることによって、教義を持ち運ぶことができるようになる。こうしたわけで、エジプトにいようとアジアにいようと、あるいは世界中のどこにいようと、同じ権威のもとに規範が構築される。このような、同一の権威を拠り所にした教義によって生まれる共同的な意識によって形作られたものが宗教である。

 これは、箱[PC]とOSの関係で考えるとわかりやすい。箱(神)それ自体では我々が求めるような機能を有しないが、OS(教義)と組み合わせることによって、箱(神)に機能が与えられる。

 また、OSの場合がそうであるように、教義の場合にも複数の物が生まれる。違う土地や規範を持った共同体に関わるうちに、今までの教義では担えない要素が出てくる。そのために、ある教義でその範囲を担いきれなくなると別の物が構築され、より広い範囲の、或は、別種の範囲を取り込めるようなものが形成される。OSではMacLinuxWindowsがそれであり、教義ではユダヤやキリストやイスラムがそれである。

 前述のように、教義は持ち運びがしやすい類のものである。OSをUSBに入れて持ち運べるように、教義を船に乗せて別のところへ持っていくこともできる。USBを別の箱に接続すればそのOSが使えるようになるし、教義を別の土地で浸透させれば、その土地にも宗教を作ることができる。