正しいことを知っている人は正しいことを行うかという問いに対して

 正しいことを知っていない場合、偶然に正しいことをなすことはある。人里に降りてきた熊が、人を殺さなかった場合などがそれである。この場合の正しさの遂行は、恣意的なものではなく、偶然的なものであるといえる。もちろん熊にも良心はあるだろうが、人間社会の正しさは知らないのであり、人を殺すとその後にどうなるかということも正確には知っていないのだから、恣意的に正しさをなしたということはいえない。
 正しいことを知っているというには、二種類の物があるといえる。一つは、例えば殺人が悪であると知識として知っている人、一方は、殺人それ自体がどう悪いのかを知っている人。そして、これら双方が正しさに従う場合と、従わない場合とを考える必要がある。前者の場合の要素では、正しさを行う場合には、法律によって裁かれたり、評判を落としたり、報復の危険が生じることを知っており、これらを回避するために、殺人を行わずにいることができる。これらの障害よりも、殺害の利益が上回れば、それを実行する。利益というのは物質的な物でも情動的な物でもである。
 これに対して、正しさのそれ自体の特性を知っている者は、それ自体の理解の故にこれを回避する。すなわち、殺人を行うことは、秩序を乱すものであり、秩序を乱すことは共同体にとって危険なことであり、それが許可されれば、自らも被害を被るものである。また、生物にとって生命というものは、最も大事なことの一つであり、これを破壊することは、生命にとって忌避されることである。そのような理解があるがゆえに、たとえ法で裁かれずとも、殺人をしないように活動するし、その他のもろもろの制約がなくとも、それを行わない。
 この者が、ある正しさに従わないのは、正しさの矛盾した対立によって、どちらかの正しさを選ばなければならない状況に置かれた場合である。例えば、彼が統治者であって、民を統治しており、人口も増え食料が足りなくなり、新たな土地を必要としている場合、その必要の土地をほかの者がそれを良しとせず、妨害された場合、民を飢え死にさせるか、他者を殺してでもその土地を手にしなければならないというような状況においては、正しさの矛盾した対立が起こり、どちらかの正しさを選び取らなければならない。この場合に、正しいことをそれ自体について理解している人が、ある正しさには従わずに、別の正しさに従うがゆえに、ある正しさにおいては、これを反するのである。-もっと理解しやすい例を挙げれば、飢えた子供を養うために盗みを働くなど-

 このことからして、正しさというものは何らかの矛盾の対立にさらされうるものであり、その場の状況によりどの正しさを選ぶかには変化が生じる。従って、万人が正しさから逸脱するものであり、知らない者は偶然か盲目に、表面的に知っている者は、それを通じて生じる利害の故に、真に知っている者は、それ自体が持つ利害の故に、正しさに従い、正しさに従わない場合には、知らない者はその無知ゆえに、表面的に知っている者は利害が上回るがゆえに、真に知っている者は、正しさが矛盾した対立を迫る故に、正しさに反した行いをする。

 また、正しさの複数性の故に、表面的に知っていることと、真に知っていることは、個人の内に同時に内包されうるものでもある。